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ドラゴンクエスト7の小説ブログです。 9プレイ日記もあります。
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今回はほとんど文句なので、黙って楽しみたい方はスルー推奨です。




■一粒で美味しいあらすじ
ヨナタンが天使たちのもとに身を寄せた動機は「弱き存在である人間を絶望から守り、救済したい」という優しい心だったに違いない。そう、彼は出会った頃から、優しい、行儀のよい、いいやつだった。プルガトリウムの暗闇の中、ヨナタンの声は「われはもはやヨナタンなる人の子にあらず」とフリンに告げた。彼は人間を思うあまり、自らは人であることを捨ててまで神の意思を実現する力になろうとしたのだ。もうヨナタンはいない。ヨナタンは神の戦車となった。

しかし「神の寵愛」を理解しないフリンに対し、ヨナタンの声は憤り、愚かな反逆者を哀れみ、ついにこう言ったのだ。

…やはりゲスな生まれの人間なのだな

返す返すもご馳走様でした。ミカド国民はすべて神に選ばれた民であり、彼が口にした「生まれ」とは、その民が神に背いて作り上げた偽りの階級だ。最も神に近づいた人、最も神に献身する人ヨナタンは、そうなるに至る過程のうちに、神に愛されぬ感性を身につけてしまっていた。ただの人の子であった頃のヨナタンは、そんなことを言う男ではなかったのに。


ワルターはフリンに「オレたちにはもう帰る場所はない」と語ったが、神の御許にも人の倫理にも、真に帰る場所を失ったのはむしろヨナタンなのかもしれない。よろしい、友よ、この手で葬ってやろう。さあ、姿を見せろ! イザボーも怯えているし、そろそろ明かりをつけたまえ! 人であることを失った友人を討つのは二度目だ、そしてその経験をするのは僕だけでよかろう……


■…ところが全然ヨナタンじゃなかった。
と、このように場の熱気も最高潮、ライブハウスに一気に照明がともる瞬間のごとく満を持して登場した「神の戦車」メルカバーが、あまりにも暴投したデザインだったのでそれこそ一気に萎えてしまいました。全然ヨナタンじゃないです。ヨナタンと思ったけど、誤解だったのかな…と思うレベルです。

メルカバーは、あの四大天使と同じく、そこここに無表情な顔面を装備した、立体像を全く想像させない平面図です。インパクト以外の何の感慨ももたらしません。

さきほどまで、確かにヨナタンの声がしていたわけです。そうするとここはどう考えても、神の戦車=ヨナタンだと思います。違ったらまあ仕方ないのですが、戦闘後のイザボーの発言を聞いていても多分ヨナタンだったと思います。ならば、たとえば樹木に半身をうずめたドリアードのように、神の戦車に取り込まれ、それと一体になったヨナタンの姿を絵的に見たいわけです。人の子であったヨナタンが神の戦車となり、その心身を戦車に捧げ、「自分は超人間的な正しいものに従って、今やその一部なのだ」という自信を溢れさせているのに、メルカバーの一部に垣間見える人体の断片はあまりに頼りなく、きわどく、人として異形ゆえに人の目には嫌悪を感じさせもし、そのいびつさのインパクトを堪能したいのです。志のためにそのように異形になってしまった人間のあさましさや、フリン自身とヨナタンのそれぞれの決意の果てにあったものを目の当たりにして、しかもそれを受容し、乗り越えたいのです。視覚的に表現する、ビジュアルが作用するというのはそういうことではないでしょうか。メルカバー戦のあと、思わず「ケフカ」を画像検索してしまうくらいフラストレーションがたまりました。あの神性と人の狂気を素直にひとつの個体に表現した絵が恋しくなったのです。そのくらいのことは、絵柄の好きずきを別にしても、求めてもいいのではないかと思います。


■しかも第二形態が謎
まあまあ、突き詰めれば「ヨナタンのあられもないところが見たい」という欲求が、私の個人的な趣味だということにして、殴っていますと、メルカバーは第二形態になりました。倒したかなと思ったらますます強くなってしまうというお約束ながら興奮する展開には一瞬持ち直したのですが、このメルカバー、左右にぱっくり分かれてしまいます。どう見ても右側は「綺麗な感じ」、左側は「汚い感じ」になります。もっと言うと、右側は天使的であり、左側は悪魔的です。場合によっては両方悪魔に見えますが、右側はもう目が慣れました。

しかし、なぜ神の戦車それ自体に二面性があるのか分かりません。視覚的にこのゲームのコンセプトとは異なる姿をしているか、さもなければ私の物語の解釈が間違っていたのかのどちらかです。何かすごくもやもやして戦いにくいです。


この物語では、かなりざっくりした分け方をしています

天使・悪魔
ヨナタン・ワルター
善・悪
秩序・混沌
白・黒

明瞭です。安易を嫌わずに二分したからこそ引き立つ設定です、そこにグレーがあるとすればそれが中庸です。そうやって決めたからにはそれ以上ややこしいことを言ってはいけない。それは深みが出るというよりは整合性が失われます。

たとえば天使について「その一面的すぎる善は、人間にとってはかえって悪意に等しい」とか「秩序をもって人を守ろうとする神は、その秩序に不要な人間に対しては無慈悲に牙を剥く、いっそ禍々しいものである」などと認識するかどうかは、人の心に委ねられる判断・反応であって、人が自発的に、完璧に美しい天使の姿の中にその姿とは真逆のものを見いだして恐怖すべきなのです。神・天使サイドが内側にすでに葛藤をもっていて、それを外見に丸出しにしていてはおかしいのです。メルカバーそれ自体が「対照的な半身を有する、左右一対のデザインをしていること」、そしてそれが「最初は隠されていて、攻撃の末に第二形態になると露呈してしまう真の姿であること」は、どうしても作画上のミスとしか思えません。まんま分割してあるって。それとも、その姿を示すことであえてそれを伝えたかったのか?


…でも半身が禍々しいって絶対おかしい。今までのテキストと齟齬がありすぎます。百歩譲って、今後リリスサイドの半身が神々しかったら「ミスではなくて、間違った試みをしたのだ」と理解することは出来ます。でも今まで見てきた絵でも、四大天使とリリスがどっちも区別がつかないくらい禍々しいので、これを素直に受け取れば「どちらも結局悪である」というメッセージを絵が発してしまっていることになり、これもまたテキストとの間に齟齬がありすぎて、かなりミスだと思います。

こういう、絵とテキストからなるゲームを遊ぶプレイヤーはほとんど全員、絵とテキストが読めるプレイヤーです。悪魔合体というシステムだけを遊んでいる人も中にはいるかもしれませんが、悪魔それぞれの説得力のある姿や、ルート分岐した物語も楽しみたいのです。なので最低限、制作側も絵の読める人に絵を決めて欲しかったです。次作があるなら、次作では所謂モンスターデザインのコンセプトを軽視しない制作をして欲しいです。でもステージは軽視されていなくて、プルガトリウムはとても印象的な、天使の拠点らしい、いい場所だったから、メルカバーのデザインはもうなかったことにして先に進みます。ミカド国も、ナラクも、東京も、可能性の二つの東京も、どのステージも好きです。タヤマの使役悪魔が電飾を装着していたりガワをかぶっていることはタヤマらしい趣味ということでスルーできるのですが、設定や世界観そのものに関わってくるという意味で重要な悪魔のデザインは、そのコンセプトを外さないでほしかったです。
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ゲーム大好きモル元です。

9のプレイも一段落ついて、そろそろ7小説に戻ろうか、と書き始めた途端、シャークアイの知名度や活動人口の少なさを再び思い知って打ちひしがれている今日この頃です。皆さんにシャークアイのことを思い出してもらったり、好きになってもらうために、めげずに頑張って書いていきます!

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